人の歴史は「眼」が回してきた〜絵画が担ってきた役割〜

山内宏泰さんと「見える」の歴史を読む

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Writer:山内宏泰

2024/12/24

人の歴史は「眼」が回してきた〜絵画が担ってきた役割〜

「見る」だけにとどまらず記録すること。絵画誕生の歴史と発展、写実から内面の表現のその先へ、美術・文学に造詣が深い山内宏泰編集長と探っていきます。

人の欲望を叶えた「眼」

生物が「眼」を生成・獲得する過程をこれまでに見てきた。「見る」という機能を備えたことによって、生命は活動領域とその内容を爆発的に充足させてきたのだった。
 もちろん人間だって、その例に漏れない。ものを見る能力をフル活用して文明・文化を発達させ、万物の霊長たる地位を築いてきた。

 ところが人の欲求は限りない。地上を支配しきったあとも満足を知らず、見ることの恩恵をまだまだ得ようと進歩を繰り返す。欲望の向かった先は、視覚を記録したり自在に操ったりできたらという願いを叶えることだった。
 目で見たイメージを留め所有するために、人がまず思いついたのは、絵を描くという手段。南フランスにあるショーヴェ洞窟には、古代の人の描いた鹿、馬、野牛などの無数の絵が残っている。これは3万2千年前のものと推定される。

Painting in the Chauvet cave, 32,000-30,000 BC. Found in the collection of Grotte Chauvet. (Photo by Fine Art Images/Heritage Images/Getty Images)

 狩りの際にでも見た動物たちの姿を、目を見張るほどの正確さと克明さで描いてある。人類はその歴史のごく初期段階から、目にした関心事を自分の手元に留めようとしてきたのだ。
 各地に残る洞窟壁画はどれも、現代の基準に照らしてもとことん上手い。人は古来、見事に外界を写しとる能力を持っていたことになる。

 ところが、だ。西洋の事情を取り上げれば、紀元後の中世になると絵の上手さが影を潜める。社会生活全体にわたってキリスト教の影響が色濃かったゆえ、創造とは神のみが成し得るものとされ、個人が外界を見事に写したり創造的な画面をつくるなど、思いもよらなかったのである。

絵画の技術を向上させる「眼」

 歴史は進み、紀元後1300年あたりになると、そうした慣習を打ち破る動きが出てきた。
 それはひとりの画家の勇気ある試みから始まった。イタリアに生まれたジョットだ。彼もまた宗教画を描いたが、そこに新しいやり方を持ち込んだ。
 観察、という方法である。

 決められた「型」をなぞるだけだった絵画制作の先例をジョットは無視し、自然の事物を観察しながら描いた。
樹木のかたち、人の表情、衣服の質感やヒダなどを見て写す、つまりは写生をした。自分の見たままを、絵画を通して伝えたかったのだろう。

 ジョットのあとには、ルネサンスと呼ばれる時代がやって来る。イタリア諸都市を中心に湧き起こった文化芸術の大きなうねりだ。レオナルド・ダ・ヴィンチら凄腕の巨匠たちが、ジョットの「観察し、外界を写す」手法を洗練させていく。彼らはより見たままに真らしく描こうと、遠近法や陰影法といった絵画技術を確立した。

Léonard de Vinci (Leonardo di ser Piero da Vinci, dit Leonardo da Vinci)Italie, Musée du Louvre, Département des Peintures, MNR 265 – https://collections.louvre.fr/ark:/53355/cl010066723 – https://collections.louvre.fr/CGU

レオナルド・ダ・ヴィンチ『モナ・リザ』(約1503–1516)ポプラ板に油彩、77 × 53 センチメートル、ルーブル美術館、パリ Licensed under パブリック・ドメイン via ウィキメディア・コモンズ.より

 以降数百年。西洋絵画は、眼前にあるものをいかにリアルに描くかを求めて展開していく。
技量の蓄積がピークに達したと目されるのは、モネやルノワールら印象派と呼ばれる画家たちの作品である。

 たとえば、モネの代表作《睡蓮》。著名なこの絵では、水面のきらめきと光を照り返す蓮の葉による複雑な色合いだけが、画面の隅々までを満たしている。描かれているものすべてのカタチが光によって溶け出して、全体は茫洋とし、単なる色の連なりとしか思えなかったりする。

クロード・モネ(フランス、1840年~1926年)『睡蓮』、Licensed under パブリック・ドメイン via シカゴ美術館.より)

 けれど、その色の洪水を浴びているのが、この上なく快い。そこに含まれている意味など考えず、ただ見ることに没頭していられることが幸せだ。そんな気分にさせてくれるのが、印象派絵画の特長である。

絵画を超え「見ること」を求める「眼」

 印象派絵画は、見たまま・ありのままの視覚とは案外、このように芒洋としたものなのだと知らせてくれる。モネの後輩画家にあたるセザンヌは、モネを称してこう言った。
「彼はただの眼だ。しかしこれは何という眼だ!」
 ただの眼になりきったモネの絵画は、視覚を正確に記録し留めたいという人間の欲望のひとつの到達点だった。

19世紀後半、虚心に「見ること」を極めた絵画はその後、ピカソのような写実的でない作品や抽象絵画が幅を利かせ、写実ではなく人の内面の表現へと向かっていくこととなる。
 絵画の代わりに、見たまま・ありのままを記録する役割を担うこととなるのは、写真や映像の技術だった。

人が「見ること」へ賭ける欲望は衰えを知らず、20世紀は「映像の世紀」と呼ばれるほどとなり、21世紀の現在では画像・映像をさらに自在に撮ったり見たり操ったりする状況が実現している。

 人の「眼」の機能拡張を託された写真・映像の発展について、次回見ていくこととしよう。

著者紹介 About Writer

山内宏泰
ライター。美術、写真、文芸について造詣が深い。
著書に『写真のフクシュウ 荒木経惟の言葉』(パイインターナショナル)『写真のフクシュウ 森山大道の言葉』(パイインターナショナル)『上野に行って2時間で学びなおす西洋絵画史』(星海社新書)など。
「見える未来文化研究所」の共同編集長。

この連載について About Serial

山内宏泰さんと「見える」の歴史を読む

美術・文学に造詣が深い山内宏泰編集長と、「見える」の歴史を探ります。

  1. 01 「見える未来文化研究所」眼はどうして生まれたか〜生命史を画する「眼の出現」OGP
  2. 02 「見える未来文化研究所」眼のしくみ〜なぜものは見えるのか〜OGP
  3. 04
  4. 05
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